2004年07月18日
人は平等ではない[ ]
【福祉ネットワーク第一回放送のRO廃人――自己実現は密の味】
NHK教育テレビ『福祉ネットワーク』(毎週火曜日午後8:00縲鰀8:30、再放送は翌週火曜日午後1:20縲鰀1:50)・平成16年7月のネット依存特集の第一回放送分として放送された。番組では一人のラグナロク廃人が誕生する過程を紹介しながら、ネット依存の一ジャンルであるオンラインゲーム依存の特徴を紹介した番組の感想がかかれている。
当方は、番組そのものは未見であるがPSO BBにはまり、ネット廃人への道まっしぐら(自覚は無い(笑))を歩んでいる身として、興味深く拝見させて頂いた。
その記事の中で非常に興味深い発言として、
「ゲームの世界では、考えた事とかが頑張った分だけ結果になって戻ってくる。それで自己実現出来るんです。ゲームの世界に熱意を注いだほうが現実の世界に熱意を注ぐよりも結果が帰ってきて、自己実現出来ます。」
とある。
現実の世界で何事かをなすのは非常に難しく、そして、何を為したらいいのか?と言う正解が無い。
まさに人の数だけ為すべき事があり、そして必ずしも何事かをなしえなくてもいい。そして、個々人の能力も一様ではなく、千差万別。
自分の夢を必ずしも実現出来る人ばかりではない。
しかしながら、ゲームの中では目的が決まっている。
最近のMMO(Massive Multi-player Online:大規模多人数オンライン)と呼ばれるゲームでは、必ずしもその目的は一つに設定されてはいないが、少なくともレベルを上げる事はその目的の一つであるだろう。
そして、この目的を実現させるための、個人の能力と言うのは平等の元に成り立っている。
ゲームと言う、直接自分の能力差が反映されるものではなく、そこに参加している人誰もが平等にパラメータを与えられたスタートラインに立っている。
すると、その世界ではリアルの人間の能力差はあまり関係なくなる。
今現在の自分の能力差を捨てて、新たなスタートラインに立つ事が出来、物事を実現する事が出来る。
つまり、努力すれば必ず自己実現が出来る世界にいる。
これがゲームにはまる要因だと思う。
リアルの世界では例え努力をしても、必ずしもそれが報われる事は無いが、ゲームの世界では努力した分だけ報われるのだから。
でも、裏を返せば、現実での自己実現が難しいと言う事であり、それは人は必ずしも平等ではないと言う事なのだろう。
人の行動の選択肢そのものは誰しもが平等ではあるが、親を選べないと事から始まり、そういった中での教育環境等、成長した時には既にそれぞれの能力差が大きなものとなっている。
そして、それは子どもが選ぶことは出来ず、ある意味環境による必然性を伴うものでもある。
しかし、それで嘆いていても何も変わらない。せめて、それに気が付いた時からでも行動しなくては。
そうそう、それを人は個性と呼び、尊重します。自分の個性に気が付くことが自己実現の一歩なのでしょう。
ところで、ゲームの世界で様々な事を為しえたとして、それがどういう意味があるのだろうか?
そのゲームの住人からは褒め称えられるだろう。しかし、所詮は一個のパソコン上での話。
サーバーデータが飛んだらそれで終わりなのだ。せめて、後で振り返った時に何かが残っている様にはしたいもの。
私はゲームの世界は所詮は他の誰かが作り上げた世界………言い方を変えてみるならば、誰かの手の上で踊っているに過ぎないと考えている。与えられた世界に過ぎません。
それが良くできたものであれば、楽しく時間は過ごせるでしょう。しかし、そこでは人知を越えた事象に出逢う事はない。
ゲームフィールドのそこにある花も意図的におかれているもの。自分の家の庭先にふと咲いている花と見比べてみるとどうでしょう。その花は風のいたずら、雨の偶然などでそこに咲いています。世の中の偶然を考えてみるとなんと奇跡的で面白いものだ…と思わずにはいられません。
ゲームは世界の中心にはなり得ないです。
…PSOにはまっている自分に対して、自戒の意味をこめて考えてみた。