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記憶と生存

2006年11月29日

記憶と生存
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生きているということ。それは一体何を持って生きているというのだろうか?単に、生命の連続性をもって、その個体が死んでいないというだけであり、実際は死んで生まれ変わっているのではないか?そんなことを感じる出来事があった。

私は、結構なゲーマーだったと思う。
かつて様々なゲームをプレイし、相当やりこんでいたりもしたものだ。
そんな私であるが、過去のゲームがどんなストーリーだったのかという事を皆目覚えていなかった。今回たまたま、セガサターンの天外魔境第四の黙示録を10年ぶりくらいにプレイをしたのであるが、ゲームのストーリーを全く覚えていなかった。これ程までに綺麗に忘れているとは思わなかったのである。
また、先日はサウンドノベル街をプレイしたが、これまた綺麗さっぱり忘れていた。

こうやって考えてみるに、確かに私自身は過去も現在も一個の人間であると認識しているのであるが、実際にそれは連続性を持った人間なのだろうか?と疑問がわいてくる。過去の記憶を持たないものが、同じ人間なのだろうか?既に過去の私は死に、新しい今も昔も変わっていないと思い込んでいる私がいるだけではないのだろうか?

何をもって、同一人物であると判断するのだろう…
記憶であるだろうか?性格(資質)であるだろうか?何があればその人になるのだろうか?

他者から見た場合の同一人物であるための要件。
自分が自分であるための同一人物の要件。
それぞれは微妙に異なっている様にも思える。

他者から見た場合に同一人物であるための要件とすると、そこに生命の連続性というものは存在しなくてもいいと思う。実際に、他者と出会うときというのは時間の連続性は寸断されており、その寸断された間にその生命に何があろうと困ることがなく、次に出会ったときにその生命っぽい記憶を元に過去を語り、今を行動しているのであれば、他者から見たときにはそれは同一の生命体と認識してしまうだろう。
一番分かりやすいのはネット越しにチャットなりメールのやりとりをする場合だろう。それっぽい行動であればその人であると信じてしまう。それを少しばかり拡張し現実世界でその人のAIで行動するロボットが人の皮を被っていたらきっとその人であると認識してしまうだろう。
つまり、他者が人を認識するのはその人の記憶であり、考え方であり、容姿であると言える。

それに対して自分が自分であるというのは非常に難しいと思う。
確かに、生命の連続性として自分は生まれてこの方死んでいないのだから、自分は自分であると認識する。それは正しいと思う。しかしながら、日々何万もの細胞が死滅し、自分の記憶は失われ、思い出すことの出来ない事柄が多数存在する。その様な状況であっても、自分は自分と言えるのだろうか?
細胞の新陳代謝により、自分が生まれたときの細胞というものは既に存在せず、シナプス構造だろうか、記憶を中心に自分を維持していると考える時、果たしてそこに存在する自分は今も昔も変わらず、自分であると言えるのだろうか?

Posted by りじんぐ at 17:51

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2006年11月29日 17:51に投稿されたエントリーのページです。

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